出水郷第2代地頭の樺山久高について  『いずみ郷土研究』第26号 原稿

  

1、はじめに

出水においては出水郷第3代地頭の山田昌巌は結構有名であるが、その前の第2代地頭の樺山久高については歴史上薩摩藩ではかなりの功績があったと思われるのにあまり知られていないように思った。

 また、私の父方の祖母の旧姓が樺山だったこともあり、もしかしたら、樺山久高は自分の先祖の一人であるかもしれないとも思ったので特に興味を持った。

そこで、自分なりに樺山久高について調べてみたので、今回ここで紹介してみたいと思う。

  

2、出水外城について

江戸時代、薩摩藩は鶴丸城を本城とし、領内各地に外城(とじょう)と呼ばれる行政区画を設け統治にあたっており、その中心地を麓(ふもと)と呼んだ。

出水外城の麓は平良川左岸の「向江」と重要伝統的建造物群保存地区になっている「高屋敷」の両武家地、そして間に挟まれた町人地「本町・中町・紺屋町」からなっていた。

出水麓伝統的建造物群保存地区は30年程の歳月をかけて城山から米之津川に続く起伏の多い丘を整地し、道路を掘り、川石で石垣を築いて作られたと伝えられている。

出水麓は、出水郷に赴任する薩摩藩士の住宅兼陣地として、中世山城である出水城の麓の丘陵地帯を整地して作られたところで、その整地には、関ケ原の戦いの前年(1599年)、本田正親が初代地頭に着任してから、第3代地頭の山田昌巖の治世下まで、約30年かかっており、薩摩藩内では最も規模が大きく、藩内のほかの麓は、出水に倣ったといわれている。

出水は、肥後(現在の熊本県)と薩摩の国境に位置したので、藩の防衛上重要な地域であることと、一国一城制度下の薩摩藩の外城制度(島津氏による、藩体制強化のための政治制度)により、出水には数多くの薩摩藩士を郷士として住み着かせ、藩境の防衛の任に当たらせた。

この頃の地頭は任地で政事・行政・武事・文事などすべて掌り、出陣に当たっては、その郷の郷士を指揮統率する任務と権限を有し、任地に居住していた。

なお、樺山久高を出水郷第2代地頭と表記しているが、平成28年2月27日に出水市麓町の竪馬場公民館で『出水に移された島津家臣団〜志賀家・三原家を中心に』と題した歴史講座が出水市歴史民俗資料館の肱岡隆夫氏を講師として開催されて受講した中で、出水郷の地頭は本田正親の前に伊集院抱節がいるが、そのあとの本田正親を初代として、以後の地頭を第2代、第3代と数えていく表記は後からのもので、大正4年に刊行された中村一正著の『出水風土誌』以降のものであるらしいとの話があったので書き添えておく。

文禄3(1594)年に薩州島津家の断絶によって出水五万石は一時天領となったが、その後間もなく朝鮮泗川の戦功により慶長4(1599)年に出水は島津宗家の島津家久所領となり、幕末まで薩摩藩は地頭制をもって統治した。

また、薩州家は滅んでもその残存勢力である土着の人達の力はあなどり難く、慶長から元和にかけて大規模な住民の移動が行われたようである。

慶長17(1612)年の薩州出水衆中軍役高帳によると、当時は樺山久高が出水地頭であった時代であるが、出水郷の武士の人口は1257名で、その内、麓衆中は約半分の689名であった。

そして、麓衆中は薩摩藩内の各地からの移衆によって組織された新来の武士群であり、大川内、軸谷、平松、米之津、今釜、福之江、荘、野田、西目、長島のいわゆる十ヶ外城には土着の武士が配置されていた。

十ヶ外城にはそれぞれ押えとして必ず高禄の移衆がいた。

出水郷の初代地頭の本田六右衛門正親の在職期間は8年、第2代地頭の樺山美濃守久高の在職期間は22年、第3代地頭の山田民部少輔有栄(昌厳)の在職期間は28年であったので、出水麓の外城整備に携わった期間は樺山久高が最も長く、樺山久高の統治時代にハード面及びソフト面共に出水外城の大半が整備されたと思われる。

私は、平成27年10月24日、出水歴史民俗資料館の開館30周年記念歴史講座が出水中央図書館研修室で開催されたので受講した。

講師は鹿児島市立西郷南洲顕彰館館長のコ永和喜氏で、演題は『領内最重要、出水外城を観る』であった。

出水外城関連の講座であったので終了後の質疑応答時に出水外城整備の時期と樺山久高の関与について質問してみたが、その関係の史料は未だ確認されていないようであった。

1599年から30年程で整備されたという説を具体的に確認できる史料はなく、これは他の史料から推測したものであると思われる。

平成28年3月12日、出水市文化会館において、桐野作人氏が講師で『歴史のなかの出水〜戦国時代を中心に』と題した出水市市制施行10周年記念講演が行われた。

講演では、出水城(亀ヶ城)を豊臣秀吉が「此所は隠れなき名城」と絶賛し、島津義弘も関ヶ原合戦後、入城を図ったりしたすごい城であると紹介されていたが、そのような城の機能を外城へ移した時期の大半が、樺山久高が出水地頭の時代であったことを考えると、その頃のハード面及びソフト面の移行を樺山久高が具体的にはどのように実施したのか興味深いところである。

  

3、樺山久高の経歴

樺山久高は、戦国時代から江戸時代初期にかけての島津氏の家臣であり、父は樺山忠助で、祖父は樺山善久である。

樺山久高は、島津氏の家臣としては歴戦の猛将として活躍しているが、武芸だけでなく、和歌や蹴鞠にも造詣の深い教養人であったと言われている。

樺山氏は薩摩国島津氏の庶流で島津宗家4代当主島津忠宗の5男である資久を祖とする家で、日向国三股院樺山(現在の宮崎県北諸県郡三股町樺山)を領したことから樺山姓を称した一族である。

樺山久高はその13代目の当主である。

1560年の出生とされているが、1558年出生の説もある。

当初、島津氏重臣大野忠宗の婿養子となり大野七郎忠高と称した。

1576年(17歳時、以下1560年出生の場合の年齢)の高原城攻めや、1584年(24歳時)の沖田畷の戦いに従軍し、1585年(25歳時)の堅志田城攻めでは敵2人を討ち取り、翌1586年(26歳時)の勝尾城攻めでは敵と組打ちし、手負いとなりながらも討ち取っている。

同年の岩屋城攻めでは一番首の功名を為した。

同年、島津義弘の陣に属して豊後国入りし、犬童頼安・犬童頼兄と共に坂無城の番を仰せつかった。

翌年の豊臣秀吉の九州征伐の際、肥後国の豪族が離反し坂無城へ攻め寄せようとすると、新納忠元・伊集院久春と共に敵陣を破り、敵100名を討ち取って無事に薩摩国への帰国を果たした。

島津氏が秀吉に降伏した後は、小田原征伐に向かう義弘の次男・島津久保の供をした。

翌1591年(32歳時)、義父の忠宗が島津義久の命により誅殺される。

これに伴い、忠高も加世田に蟄居した。

しかし、義弘より文禄の役へ参戦する久保の供をするよう命が降り、離婚して樺山姓に復すと樺山権左衛門久高と改名し、200石を加増され家老に任じられた。

1593年(34歳時)、久保が病死すると一時帰国するが、再び朝鮮へ渡海すると1598年の泗川の戦いでは、激戦のなかで身長6尺の剛腕の江南出身の明兵と格闘となり、久高は組み伏せられて危険な状態となったが、家来の田実三之丞が駆けつけて明兵の顔を突き、ひるんだ際に明兵を討ち取るという危うく討ち死にするような経験もした。

直後の露梁海戦で李氏朝鮮の主将李舜臣を討ち取り水軍を破るなど、甥の樺山忠正と共に戦功を挙げた。(※朝鮮側の史料である『壬辰録』によれば、李舜臣は腋に銃弾を受け、自らの死をかくすことを命じて絶命するとある。)

帰国後の1599年(40歳時)、甥の忠正が嗣子無く伏見にて病死すると久高が樺山氏を継ぎ、島津忠恒(家久)の代にも家老として重用された。

1607年(48歳時)に出水の地頭に任じられた。

1609年(50歳時)の琉球侵攻において、首里城を落とすなどの武功を立てて、島津氏の琉球支配に貢献した。

1628年(69歳時)に伊作(現在の日置市吹上町)の地頭となり、同年出家し「玄屑」と号した。

領地の加増を訴えるも家久には無視され、跡取りの息子にも先立たれて失意の晩年を送り、1634年(75歳時)に病死した。

墓所は日置市吹上町中原の多宝寺跡にある。

樺山久高が出水の地頭になったのは48歳の時で、2年後の50歳の時に薩摩藩主島津家久の命により、総大将として約3000人の軍隊と約100隻の軍船を率いて琉球に侵攻して征服に成功しているが、このことは後に明治政府が琉球王国を廃止して沖縄県を設置した琉球処分に歴史の流れの上から繋がり、現在の日本における沖縄の立場にも繋がっていると思われる。

また、樺山久高は琉球渡海衆の編成に関わっているが、樺山久高の直属の渡海衆動員数は60人の記録があるので、おそらく出水衆がこの琉球侵攻には60人加わっていたと思われる。

なお、樺山久高が出水地頭をしていたときの出水衆についての史料は、薩州出水衆中軍役高帳で慶長17(1612)年の2番と元和6(1620)年の3番があり、2番に樺山久高の石高について2845石9斗5升の記録がある。

  

4、池城安松先生について

話はちょっと逸れるが、私は15年程前から「揆奮館流武術修錬会」という武道塾(武道・武術研究会)を主宰している。   

師匠は沖縄出身の池城安松先生で約40年間師事した。

池城先生は、縁あって出水の地に定住し、揆奮館流武術を創始されたが、出水で約500名の門下生を輩出された。

先生は先祖が琉球王国の三司官(王府の実質的な行政の最高責任者である宰相職)を数多く輩出した琉球士族の家柄であることを誇りにしておられ、平成22年に88歳で亡くなられたが沖縄武士の風格を備えた武術の達人だった。

樺山久高を総大将とした薩摩藩琉球侵攻時に琉球国の和議派の重臣であった池城安頼(1558〜1623)は、久米村の毛氏の嫡流で、武術にも長じており、尚寧〜尚豊王代に1611年から1623年まで13年間、三司官の職にあった。

池城安頼は、1592年、謝名一族の反乱の鎮圧に功をたて紫冠となり,1609年の薩摩侵入後、1610年に尚寧王が島津家久に伴われて駿府、江戸に赴き大御所徳川家康、将軍徳川秀忠に聘礼を行った際、随員として上国した。

さらに貢期を元の2年に一度の朝貢に戻すことを求めるため王舅として明国の北京に赴いた。

1611年島津氏は琉球仕置を行ない、尚寧王に琉球が古くから薩摩の附庸国(属国)だったことを認めさせ、沖縄島ほかの諸島89000石余を与え、与論島以北の奄美諸島を直轄化した。

琉球出兵における島津勢総大将の樺山久高は出水地頭でもあったので直属の出水郷士も琉球出兵に加わり琉球武士の敵方として戦ったと思われるが、当時の琉球士族の池城安頼の子孫の池城安松先生が、縁あって定住した出水の地で空手や棒術等の琉球武術を500名以上の弟子に伝授した。

それぞれの先祖が琉球侵攻時には敵味方の関係であったことを考えると、歴史の因果の面白さを感じる。

因みに、昭和30年から出水高校の空手部講師をされていた池城先生が昭和42年に開設した道場名にされた『揆奮館(きふんかん)』は、山田昌巌が出水兵児の育成のために出水麓に建てたといわれる学舎の名称であったらしいが、幕末には肱黒友直が館長であった出水麓の郷校の名称として、また旧制出水中学校(現在の出水高校)の創立10周年記念館等の名称にも使われてきており出水の地では由緒あるものである。

    

5、樺山久高の墓

48歳時に当時の島津家臣団でおそらく最も頼りになる武将として薩摩藩国境重要拠点である出水地頭に赴任した樺山久高は出水地頭に22年間在職した後、69歳時には伊作地頭となった。

樺山久高の後任の出水地頭は52歳の山田有栄(昌巌)が任じられた。

現在の樺山久高の墓は伊作島津家の墓のある日置市吹上町中原の多宝寺跡にあるが、私が平成27年9月23日に参拝した時には直前の台風によるものか人為的なものかは不明であったが一部損壊していた。

出水地頭の時に薩摩藩の領内最重要の外城を整備し、さらに琉球攻略を成功させたことで、当時の薩摩藩の体制強化に大きく貢献したという功績のある武将の墓の現状としては見るに忍びない思いであった。

写真@は、一部損壊した樺山久高の墓であるが、早く修復されることを望み、9月25日にその旨を日置市に伝えたところ、損壊は台風によるもので墓は墓石を元に戻し修復したとの連絡が11月11日に日置市教育委員会吹上支所教育振興課からあった。

なお、樺山久高の父の樺山忠助については慶長14(1609)年に出水で病没しており墓も出水にあるらしい。

また、現在の出水市には10世帯前後の樺山姓の方がおられるようなので、もしかしたら樺山久高の縁者の方が出水市にもおられるかもしれないが、樺山久高の末裔で樺山家第28代当主の樺山久孝氏は、1614年に樺山家に与えられた所領である祁答院町藺牟田を実家とされ、姶良町脇元に住んでおられる。

樺山久孝氏によると琉球侵攻にまつわる伝承で大将の樺山久高は琉球の人に7代はたたられるぞと言われたそうであるが、私には昨年9月に見た樺山久高の墓の損壊があたかも斬首されたような様相であったので、自然の猛威による形で怨念や崇りが出現したかのようにも感じられた。

樺山家では尚寧王の霊が「うち神」として祀られており、琉球への思いは強く、先祖だけでなく、敵も味方も祭り魂を慰めるよう伝えられ、敵味方の別なく琉球侵攻時の犠牲者を悼む精神が樺山家に今も脈々と流れている。

薩摩藩の琉球侵攻については、2009年に400年記念の行事等が開催され、2015年には那覇市首里平良町の平良橋付近で、琉球王朝時代に建設された太平橋に繋がる石積み道路の遺構が発見されたニュース等があり、現代でも当時の歴史の記憶が呼び戻されているようである。

太平橋は、尚寧王の命令により、1597年に木橋から石橋に架け替えられ、1609年の薩摩侵攻時には、琉球側の生命線とのいえるこの橋の上で薩摩軍と琉球軍が激しく戦った歴史がある。

後にこの橋は1945年の沖縄戦時に米軍の侵攻を阻むため日本軍に破壊された。

写真Aは修復された樺山久高の墓を確認するため、今年の1月17日に日置市吹上町中原の多宝寺跡を訪れた際に撮ったものである。

元どおりに修復されていたので、樺山久高の霊も安堵したのではないかと思う。

   

6、終わりに

今回、出水で22年間もの長きにわたり地頭をしていた樺山久高について調べたが、その時期の出水と樺山久高の関わりについて出水で直接確認できる史料・史跡は、残念ながらほとんど見当たらなかった。

しかしながら、樺山久高の末裔の樺山久孝氏の家には400点以上の古文書が伝えられているとのことなので、その中に出水地頭時代のことがわかる史料もあるかもしれない。

この古文書の今後の研究が期待されるところである。

なお、これを読まれた方で、出水における樺山久高ゆかりの史料・史跡をご存知の方がおられれば、さらにこの郷土研究を進めたいと思っているので、ぜひ情報をご提供いただければと願っているところである。

   

@樺山久高夫妻の墓(H27.9.23撮影)

※久高の墓は一部倒壊していた。

樺山久高の墓(H27.9.23)

   

   

A樺山久高夫妻の墓(H28.1.17撮影)

※久高の墓は修復されていた。

 

   

 

参考文献

出水市ホームページ:「出水麓武家屋敷群」、「武家屋敷(出水麓伝統的建造物群保存地区)について」

出水郷土誌・上巻、出水郷土誌編集委員会編

ウィキペディア:「樺山久高」ほか

琉球軍記 薩琉軍談、山下文武著、南方新社発行

琉日戦争一六○九 島津氏の琉球侵攻、上里隆史著、ボーダーインク発行

さつま人国誌 戦国・近世編、桐野作人著、南日本新聞社発行

鹿児島県の歴史、原口虎雄著、山川出版社発行

鹿児島県史料・旧記雑録拾遺家わけ五(樺山文書)

薩摩藩奄美琉球侵攻四○○年記念事業「未来への道しるべ」講演・シンポジウム資料 薩摩藩琉球侵攻四○○年記念事業実行委員会・沖縄大学地域研究所

薩摩藩の奄美琉球侵攻四百年再考、沖縄大学地域研究所編、芙蓉書房出版発行

島津氏の琉球侵略〜もう一つの慶長の役〜、上原兼善著、榕樹書林発行

「精神史」としての薩摩侵攻(がじゅまる通信・55)、高良倉吉、榕樹書林発行

薩摩侵攻四○○年〜未来への羅針盤、琉球新報社・南海日日新聞社編著、琉球新報社発行

本音で語る沖縄史、仲村清司著、新潮社発行

ぞくぞく目からウロコの琉球・沖縄史、上里隆史著、ボーダーインク発行

島津義弘の賭け〜秀吉と薩摩武士の格闘、山本博文著、読売新聞社発行

出水郷土誌資料編第二輯 出水衆中軍役高帳(二番)、出水郷土誌編集委員会編、出水市発行

出水郷土誌資料編第一輯 出水衆中軍役高帳(三番)、出水郷土誌編集委員会編、出水市発行

出水郷土誌資料編第二十輯 出水衆中軍役高帳(五番)、出水郷土誌編集委員会編、出水市発行

 

 

 

出水郷第2代地頭の樺山久高について(続編)  『いずみ郷土研究』第27号 原稿

   

1、はじめに

会誌『いずみ郷土研究第26号』において、「出水郷第2代地頭樺山久高について」と題して82ページから91ページまで掲載したが、90ページの年表で肝心の樺山久高関連部分が、投稿した後、編集から印刷までの過程で何故か欠落してしまっていたので、欠落部分と会誌第26号発行後に新たに得られた情報を追加したものを続編として今号で紹介する。

   

2、出水と樺山久高関連の年表

永禄3(1560)年 樺山久高、生まれる。

天正6(1578)年 山田昌巌、日置(現在の日置市日吉町山田)に生まれる。

文禄2(1593)年 薩州島津家が断絶し、出水五万石は天領となる。

慶長4(1599)年 1月、朝鮮泗川の戦功により、出水は島津宗家の島津家久所領となる。2月、伊集院抱節が出水地頭となる。                  

         本田正親、出水郷の初代地頭とし て着任し、出水外城の整備始まる。※以後、1607年まで、8年間在職し、加世田地頭に転任した。

慶長12(1607)年 樺山久高、出水郷の第2代地頭として着任する。(48歳)※以後、1629年まで、22年間在職した。

慶長14(1609)年 樺山久高、島津家久の命により薩摩藩琉球出兵の総大将を務める。※2月6日に鹿児島出発、4月5日に首里城接収(50歳)

                  5月、樺山忠助(久高の父)、出水にて病死。(70歳)

慶長17(1612)年 薩州出水衆中軍役高帳二番が作成される。

元和6(1620)年  薩州出水衆中軍役高帳三番が作成される。

寛永元(1624)年 樺山久守(久高の子)、出水にて病死。(25歳)

寛永5(1628)年  樺山久高、伊作(現在の日置市吹上町)の地頭に転任する。(69歳)

寛永6(1629)年  山田昌巌、出水郷の第3代地頭として着任する。(51歳)※以後、1657年まで、28年間在職した。

寛永11(1634)年 樺山久高、伊作にて病死。(75歳)

寛永14(1637)年 出水衆中軍役高帳五番が作成される。

寛永15(1638)年 山田昌巌、島原の乱から、出水衆を率いて凱旋し、『兒請』の次第を定めた。(60歳)

寛永17(1640)年 山田昌巌、藩主の島津光久に出水の六組十外城の制度を披露して称賛を受ける。

     

3、樺山忠助の墓

会誌第26号に、「樺山久高の父の樺山忠助については慶長14(1609)年に出水で病没しており墓も出水にあるらしい。」と掲載していたが、その後、調査して樺山忠助の墓の所在を確認したので報告する。

当初、山田昌巌の墓のある龍光寺墓地(西之口の上高城)にあるらしいという情報を得たので山田昌巌の墓の近辺を探してみたが見つからなかった。

上高城にある墓は古くて数も多いので、発見するのはまず無理であるとあきらめていたが、平成28年度出水地域文化祭の2日目の11月6日にいずみ郷土研究会の出展コーナーの説明案内係を担当した際に、郷土研究会に新規入会申し込みをされた井上氏から「薩州島津家の墓」の中に樺山姓の墓があったようであると教えていただいた。

そこで、11月8日に「薩州島津家の墓」を早速調査に行ったところ、右側の手前から6番目と7番目(写真@A)に、姓に「椛山」の漢字を使った墓が2基見つかり、7番目のものは別途資料で調べていた法名から確かに樺山忠助の墓であることがわかった。

そのときは、もう一つの6番目の「椛山」姓の墓が誰のものであるかわからなかったが、後日、別途に得られた情報で『出水名勝志』(註1)に記載されている龍光寺にあるという椛山家先祖の墓2基の法名の一つが、『本藩人物誌』(註2)に記載されている樺山久守の法名に一致したので、6番目の墓は出水において25歳で病死している樺山久守(樺山久高の子、忠助の孫)のものであることがわかった。

樺山家13代目の当主である樺山久高は薩摩藩の琉球侵攻の総大将を務めた後、出水において父と子を病気で亡くしているのである。

会誌第26号に「樺山家では尚寧王の霊が「うち神」として祀られており、琉球への思いは強く、先祖だけでなく、敵も味方も祭り魂を慰めるよう伝えられ、敵味方の別なく琉球侵攻時の犠牲者を悼む精神が樺山家に今も脈々と流れている。」と書いたが、きっかけはここらあたりかもしれない。

    

4、樺山久高の父、樺山忠助について

樺山忠助の墓が現在も出水に残っているので、樺山忠助についてここで紹介しておきたい。

樺山忠助は樺山善久(号は玄佐、1512〜95)の次男であるが、母の御隅は、島津家中興の祖と言われ薩摩藩士の郷中教育の規範となった『いろは歌』の創作でも有名な島津忠良(日新斎)の次女であり、島津氏15代当主の島津貴久の姉でもあるので、島津忠良の孫であり、戦国島津の当主、島津貴久の甥ということになる。島津氏念願の三州(薩摩・大隅・日向国)の統一をなしとげ、九州をもほぼ制覇した島津四兄弟、すなわち義久・義弘・歳久・家久とはいとこの関係になる。樺山忠助の子の樺山久高と島津義弘との関係も、1598年の朝鮮の泗川の戦いや直後の露梁海戦等での動向をみると、この血縁の近さからの親密さを感じる。

さて『本藩人物誌』や『鹿児島士人名抄録』(註3)によると、樺山忠助は、戦国時代の武将で、和歌を好み、犬追物の達者であった。

樺山家9代目当主である兄の樺山忠副が早くに戦死したため樺山家10代目の当主になり、父、樺山善久(註4)同様抜群の軍功を誇った。

天正元(1573)年、島津氏に降伏した大隅国の禰寝重長が肝付氏に攻められた際、これを救うべく出陣、肝付氏を西俣に破り功を為した。                                   

同3(1575)年に犬追物が行われた際、忠助は射手として11匹を射る程の活躍を見せ、その腕前から毎年の犬 追物での射手となり、天正4(1576)年に琉球の使者を饗応する犬追物での射手も務めた。

同年、伊東氏の高原城攻めにも出陣、その後、日向国穆佐(現・宮崎市高岡町)の地頭に任じられる。

但し耳川の戦いの頃に穆左は嫡子の規久に任せ、自身は大隅の堅利に住んだ。

天正12(1584)年の岩屋城攻めにも出陣、忠助は大石に兜を砕かれ、矢玉による無数の傷を負いながらも奮戦し、ようやくこれを落としたが、その退き陣の際に病を得て堅利へと戻った。

但し数カ月後に治癒すると再び豊後攻めへと戻り功を為した。

慶長5(1600)年の関ヶ原の戦いでは、関ヶ原に出陣した甥の島津豊久にかわって佐土原城に入り、攻め寄せた東軍方の伊東勢から同城を死守している。

慶長14年5月13日(1609年6月14日)に出水にて70歳で病没した。

生誕が天文9(1540)年、改名は忠知、忠助、紹劔(法号)、別名は助七、神号は大翁忠宏庵主、官位は兵部大輔、安芸守、兄弟は忠副と島津家久室、妻は村田経定の子、子は規久と久高である。

    

5、樺山久高の子、樺山久守について

『本藩人物誌』や『鹿児島士人名抄録』によると、安芸守久守、弓太郎の名があり、母は上原右衛門佐女で、慶長5(1600)年関ケ原の合戦のあった年に生まれている。慶長19年には大坂御出陣、人数賦55人、昇3本、乗馬3疋、高2686石2斗4升、出水衆290人乗馬5疋、山野衆17人の記載がある。寛永元(1624)年、出水にて25歳の若さで病死した。樺山家14代目の当主である。

      

6、種子島楽について

 出水市のホームページでは、更新日:2014年1月27日で、「出水市の種子島楽」を県指定文化財として、「出水麓地方に昔から伝えられてきた郷土芸能のひとつである。約400年前に第2代地頭の椛山久高が琉球からの帰途、種子島に立ち寄り特異な踊りを面白く思い、従者が各地に伝承したとも言われる。古くは、旧7月1日に御仮屋馬場で夏踊りのひとつとして踊られていたようである。今では諏訪馬場地区を中心に5集落で保存会を結成し、大きな行事のときに踊られている。最近は、恒例となった11月の「麓祭り」で披露されている。」と紹介されているが、鹿児島県のホームページでは更新日:2009年4月21日で、「種子島楽の起源には二つの説があります。ひとつは「15世紀初頭,出水の第2代地頭椛山美濃守が、琉球からの帰途に種子島に立ち寄った際、種子島に伝わる特異な踊りを面白く思って、従者がその踊りを本土に持ち帰ったことから、各地に伝承された」とされる説。もうひとつは、「18世紀前半、出水第10代地頭種子島弾正は種子島島主でしたが、出水の地頭在職中の徳を称え、出水の人々により楽が始められた」という説です。 ・・・」と、「昔は旧暦7月1日に,出水麓の仮屋馬場で「夏踊り」といって各地から太鼓踊りが出て踊るものだったといわれ,麓地区の農民はこの種子島楽を踊ったのであった。出水の地頭種子島弾正久基の遺徳をしのんで,種子島に伝わる大踊りを移して踊りはじめたものといわれる。・・・」の二つの説明が紹介されており、また、民俗学者の下野敏見氏は著書「南日本の民俗芸能誌・北薩東部編」で、宝永7(1710)年から元文元(1736)年にかけて出水地頭として赴任し、出水の水田を拓いた功労者の種子島弾正伊時久基の功を称え、久基が連れてきた種子島の家臣達から習ったとする説と、天保3(1832)年頃生れの樺金右衛門(上山崎出身)が阿久根地方にデカン(代官の転。男の年季奉公人)になってそこで習い覚えてきたのが種子島楽であったとする説を紹介している。

 これらの説明には統一性がないのであるが、史実としては樺山久高が琉球侵攻の総大将を務めた際に種子島には立ち寄ってはいないので、樺山久高由来伝承説については誤りであると思う。

     

7、終わりに

樺山家は鎌倉末期に分出した島津家の庶流で島津宗家4代当主島津忠宗の五男である島津資久を祖とする家であるが、こうしてみると後の代でも島津家と血縁関係になっているので、樺山久高が島津忠恒(家久)の代にも家老として重用されているのは、出水地頭の時に薩摩藩の領内最重要の外城を整備し、さらに琉球攻略を成功させたことで、当時の薩摩藩の体制強化に大きく貢献したという功績もあるが、親戚として島津家と親しい関係があったからかもしれない。

出水における樺山久高ゆかりの史跡として父と子の墓を紹介したが、現地にある薩州島津家の墓の案内説明板には二人が薩州島津家には直接関係がないためか特に何も紹介されていない。二人の墓は山田昌巌の墓とともに『出水名勝志』にも掲載されており、二人は『本藩人物誌』や『鹿児島士人名抄録』にも掲載されている著名人であるので、紹介説明を追加するか別に案内板を設置したらよいのではないかと思う。

また、二人の墓は樺山久高が建立したものであると思うが、墓碑を見ると、樺山忠助は「椛山安藝入道」、樺山久守は「椛山安藝守」と、二人とも「椛山安藝」の文字を使用しており、「芸」の文字は難しい方の「藝」を使用しているのに、「樺」の文字は易しい「椛」の文字を使用しているので、当時、樺山久高は姓名の表記は「椛山」としていたことがうかがえる。

なお、鹿児島県立図書館が、インターネットサイトでも、『鹿児島県史料集第35集、樺山玄佐自記並雑樺山紹剣自記』を閲覧できるように公開しているので紹介する。本書は、戦国末期における相州家三州統一の功臣である樺山玄佐(善久)、紹剣(忠助)父子の残した史料を収載したものであり、戦国大名としての島津家の権力統一過程を如実に示す史料である。興味のある方はインターネットに繋いでパソコン画面でご覧いただければと思う。

樺山久高関係の研究はこれからも継続していきたいと思っているので、ご存知の情報があればぜひともご提供いただきたい。

     

(註1) 天保12(1841)年に薩摩藩に提出された「名勝志」の控を基に北薩民俗学研究会が作成。

(註2) 戦国時代を中心に、15世紀半より17世紀までの約2世紀にわたって活躍した島津氏の一門、及び家中の諸士のいろは順による略伝集である。

(註3) 古書「本藩人物誌」「称名墓誌」「称名墓誌備考」「人物伝備考附録」を基に、中世末から近世初期にわたり、薩摩・大隅・日向の三州に属した武士を中心とした人名録。

(註4) 樺山玄佐(善久、1513〜1596)。樺山家の八代目当主。14歳の時、島津貴久の姉御隅を室に迎えてからは、抜群の軍功で島津氏の三か国統一に貢献しており、島津貴久の義兄、島津義久らの伯父として家中に重きをなした。また、島津家と京都(幕府・朝廷)との外交にも従事し、上洛も経験している。このため和歌や蹴鞠にも精通しており、永禄9(1566)年には、近衛稙家から古今伝授(近衛家が相伝している『古今和歌集』に関する秘儀の伝授)を受けており、島津家を代表する文化人でもあった。

    

     

@薩州島津家の墓(H29.3.27撮影)

※右側手前から7番目が樺山忠助の墓で、6番目が樺山久守の墓

 

            

A左側が樺山忠助の墓で、右側が樺山久守の墓(H29.3.27撮影)

     

B樺山忠助(紹劔)の肖像画。(個人蔵)

        

参考文献

出水名勝志、田島秀隆編、北薩民俗学研究会発行

鹿児島県史料集第13集「本藩人物誌」、桃園恵真執筆、鹿児島県立図書館インターネットサイト公開史料

鹿児島士人名抄録、上野堯史著、高城書房発行

ウィキペディア:「樺山忠助」ほか

宮崎市歴史資料館ブログ

島津氏の琉球侵略、上原兼善著、榕樹書林発行

琉日戦争一六○九 島津氏の琉球侵攻、上里隆史著、ボーダーインク発行

さつま人国誌 戦国・近世編二、桐野作人著、南日本新聞社発行

薩摩藩の奄美琉球侵攻四百年再考、沖縄大学地域研究所編、芙蓉書房出版発行

島津四兄弟〜義久、義弘、歳久、家久の戦い、栄村顕久著、南方新社発行

南日本の民俗芸能誌・北薩東部編、下野敏見著、南方新社発行

いずみ郷土研究第26号『出水郷第二代地頭樺山久高について』中元敏郎著、いずみ郷土研究会平成28年発行