山田昌巌と出水兵児修養掟 『文芸いずみ』第9号 (平成27年3月31日、出水市教育委員会発行) 原稿
⑴出水兵児修養掟の作者について
出水兵児修養掟は山田昌巌が創作したと、あるいは山田昌巌の訓えを基にして創作されたと思い込んでいる人は意外と多いのではないかと思うが実はそうではない。
また、成文化された出水兵児修養掟は江戸時代後期の作であるとする説もあるが、証拠となる出水兵児修養掟の記載された古文書が明治時代以前のものでは全く発見されていないので、これもいまだ推測の域を出ていない。しかし、一部にはこれを誤って史実として扱っている史料もある。
平成12年から毎年開催されている出水麓まつり(山田昌巌祭)では児請の帰陣式で執稚児が出水兵児修養掟を朗読する場面があるが、この場面は江戸時代の古文書の児請の絵図には描かれていないので、江戸時代より後の時代に付け加えられた場面であると考えられる。
大正6年に挙行された山田昌巌翁250年祭の出水兵児修養掟の朗読の場面であると思われる当時の記録写真が残っているが、私は、おそらくこれが記録に残る最も古い出水兵児修養掟の存在の証拠ではないかと思っている。
私の確認したところでは、出水兵児修養掟の成文の初見の文献は、昭和12年に出版された『溝口武夫先生伝記』である。※後日、2018(平成30)年12月27日に、「1932(昭和7)年7月10日発行、出水郡教育会編『郷土読本』が、成文化した出水兵児修養掟の初見の文献であることを確認した。
『溝口武夫先生伝記』によると、大正8年に設立された旧制出水中学校の依頼により溝口武夫氏が出水兵児修養掟の成文を揮毫している。
また、西ノ口の上高城に在る昌巌の墓碑は明治維新後次第に荒廃に帰し、時の県内務部長が出水地方巡視の際に荒廃した墓を訪ね、出水に人なきを怪しんだこと等が動機として溝口武夫氏が山田昌巌翁250年祭の挙行に際し尽力したことが記されている。
出水兵児修養掟の成文化の時期が推定できる根拠であるが、出水兵児修養掟のタイトルに挿入されている「修養」という言葉は、明治30年代中頃から大正初期の流行語であり、流行語となってから後に一般に定着して用いられるようになった言葉である。
これらのことから、私は大正6年の山田昌巌翁250年祭の挙行に際して、教育者であり武道家、特に弓道で著名であった溝口武夫氏が、当時の武士道教訓全集『武士道叢書』の中から、室鳩巣著の『明君家訓』(※武士道叢書は誤って明君家訓を井澤蟠龍著として扱っている)や井澤蟠龍著の『武士訓』の中から家臣の道を説く部分をほぼそのまま引用して、現在に伝えられている出水兵児修養掟の成文を創作したものと推測している。
そして、溝口武夫氏がこの時に成文化した出水兵児修養掟を意図的に山田昌巌に仮託したことが冒頭に述べたことに繋がっていると思われる。
⑵山田昌巌翁350年祭の挙行について
『溝口武夫先生伝記』によると、大正6年の山田昌巌翁250年祭は当時の出水町内は言うに及ばず元昌巌の治下にあった大川内・米ノ津・高尾野・野田・三笠・東西長島の協賛を得て参道を改造し墓域を修し頌徳碑を建て盛大に挙行されたとあるが、来る平成29年の山田昌巌350年祭は250年祭から100年目の節目の年であるので、250年祭の時と同様に盛大に挙行されることを願っている。
⑶山田昌巌墓所の現状について
私は、250年祭の挙行が、山田昌巌墓所の荒廃がよその人から指摘されたことがきっかけだったようなので、現在はどうなっているか西ノ口の山田昌巌墓所を訪ねてみたが、平成26年10月末現在の現状は次のとおりであった。
まず、訪れた人の最初に目に付く所にある250年祭の時に建てられた入り口の石橋の左側の標柱は100年近く経っているので史跡としての風格はでてきているが案内柱としては大変読みづらくなっている。
右側の薩州島津家の墓の案内柱は目立っているので、これに書き加えたらどうかと思う。
頂上の墓所入り口にあった2本の杉の巨木は伐採されて無くなっているが、記念碑は立派な自然石でできた250年祭のものと、その右側に300年祭の記念碑が風格を持って現存しており、付近に350年祭の記念碑建立が必要になるかと思う。
300年祭の時に建てられた当時の展望所からの眺めは出水平野を一望にできるすばらしいもので明るい雰囲気だった記憶があるが、今は展望所の屋根は無くなり見る影もなく、成長した竹や木のため薄暗い雰囲気で見晴らしも非常に悪くなっていたので、これらの思い切った伐採が必要かと思った。
途中の参道は一部石垣の崩壊があり、その下の薩州島津家の墓所も住職の墓石が二つ倒壊したままで放置されていた。
参道は一部未舗装で階段は歩幅に対し妙に登り下りしにくい間隔と角度であるので、作り直したほうがいいように思う。
なお、田ノ頭にある山田昌厳の灰塚については、毎年八月に行われている昌厳の供養祭に参加しているが、駐車場や道路・案内表示等の整備が必要であると思う。
その他にもいろいろと整備すべき個所が多々あるが、節目の350年祭を迎えるに際し、後世の利便性等もよく検討して整備されることを期待する。
⑷山田昌巌の思想について
この投稿の直前になるが、平成26年10月25日に出水歴史民俗資料館の歴史講座が出水市中央図書館研修室で開催されたので受講した。
講師は出水歴史民俗資料館の肱岡隆夫氏で「出水を通った参勤交代〜参勤交代再考〜」というテーマだったが、講座の資料の「薩摩藩参勤交代の記録」で、山田有栄(昌巌)が初代藩主家久(忠恒)の時に3回、2代藩主光久の時に3回、計6回参勤交代に参加していることがわかった。
また、山田昌巌は別に家老として将軍家光に3回謁している記録もあるので、それなりに当時の幕府方と交流があったと思われる。
この時、幕府方の学者と思想の面での交流もあったとすれば、もしかしたら関連して後世に出水兵児修養掟の成文の引用元となった『明君家訓』の室鳩巣や『武士訓』の井澤蟠龍が著作する際、山田昌厳の思想がそれぞれの著作で武士道の考え方等に影響を与えたかもしれない。
しかし、山田昌厳が具体的にどのような思想を持っていたのかがわかる本人の著書が無いので詳細は不明である。
ただ、江戸時代における明君家訓等の武士道の思想は儒学からきているものであり、基は論語等であるので、武士が日本古来の神道に外来の仏教や儒教の思想を融合させて日本独自に発展した武士道の思想を持ち始めたと思われる山田昌厳の時代から明君家訓等の時代までは思想的には繋がっていたと思われる。
⑸出水兵児修養掟と論語について
明君家訓の内容については、阿田俊彦氏が著書『古書で読む明君家訓〜「出水兵児修養掟」の出典を読み解く』や訳注書『論語章句と読む「出水兵児修養掟」』で解説されているが、これらからも、出水兵児修養掟の訓えが論語に繋がっていることが感じられた。
阿田俊彦氏を講師として、平成25年度は毎月1回、平成26年度は毎月2回、出水市中央図書館研修室で「出水論語塾」という論語講座が開催されているが、私は出水兵児修養掟繋がりで論語に関心を持ったので、平成25年度からこれを継続して受講してきた。
そして、論語は長い年月を経ていつのまにか知らないうちに日本人の心に深く浸透し、仁・義・礼・智・信や忠孝節義心といったものを育んできたことがわかった。
「温故知新」、「過ぎたるは猶及ばざるが如し」、「切磋琢磨」、「義を見て為ざるは勇無きなり」、「巧言令色鮮し仁」、「和して同ぜず」、「学びて時にこれを習う」、「後生畏るべし」など書き出せばきりがないが、見聞きしたことはあるが論語の章句とは知らずに論語に接している人は非常に多いのではないかと思う。
⑹郷土教育における山田昌巌と出水兵児修養掟について
大正6年の山田昌巌翁250年祭挙行後は、山田昌巌は郷土の偉人として大いに見直されたようで、昭和5年に作成された高尾野小学校の教師の郷土教育指導用資料(高尾野郷土館所蔵)では、10名ほどの郷土の偉人の筆頭で詳細な説明が掲載されている。
この資料には、まだ出水兵児修養掟は記載されていないが、昭和12年刊行の『溝口武夫先生伝記』では山田昌巌が出水兵児の士風を培った徳義として出水兵児修養掟が掲載されているように思われる。
⑺揆奮館について
『溝口武夫先生伝記』には、山田民部有榮入道昌巌が出水地頭となるに及び、鋭意士風の作興に努め、教化淵源の地を出水麓に卜して学舎を建て、名づけて揆奮館と称したと記載されているが、できれば今後麓に建設される資料館・研修施設等にこの由緒ある「揆奮館」という館名を山田昌巌に因んで名付け後世に残してもらいたいと思っている。
なお、館名の「揆奮」は、儒教の経書の中で特に重要とされる四書五経の一つで、政治史・政教を記した中国最古の歴史書である書経の中の夏書禹貢の『五百里綏服、三百里揆文教、二百里奮武衛』から出たもので、文教を揆り、武衛を奮う、すなわち文武両道に精進するという意味で使われていて、これが山田昌巌の目指した出水兵児の士風ではないかと思っている。
⑻出水兵児修養掟の今日的意義について
主君である島津の殿様と強い主従関係があった山田昌巌の行った出水兵児の健児団教育と、室鳩巣等が『明君家訓』等で意図した士道教育、そして溝口武夫が『出水兵児修養掟』で意図した訓育は、それぞれの時代背景が異なり同じものではなく、直接的な意味を捉えると、今の時代にはそぐわないものもある。
しかし、出水兵児修養掟の内容を現代に合うように捉えると、人それぞれの捉え方次第で現代でも十分生かすことのできる生きた訓えであることがわかる。
私は、郷土の偉人である山田昌厳を後世まで顕彰していくのはもちろんのことであると思っているが、山田昌巌に仮託して作成されたと思われる出水兵児修養掟も作成当時の意図はともかく、その意味するところは今もすばらしい教訓であると思うので、これを大切にして、後世まで継承し、守・破・離、進取の精神等もいいとこ取りに加味して、未来に活用していくべきかと思っている。
参考文献
溝口武夫先生伝記、昭和12年発行、編集者 北元友衛・西元竹二、発行者 鹿児島新聞社支局内溝口武夫翁胸像建設並に伝記編纂会事務所代表者 伊藤信夫
いずみ郷土研究第23号『出水兵児修養掟の作者についての考察』中元敏郎著、いずみ郷土研究会平成25年発行
いずみ郷土研究第24号『出水兵児修養掟の作者についての考察続編』中元敏郎著、いずみ郷土研究会平成26年発行
第14回出水麓まつり(山田昌巌347年祭)の児請の帰陣式で執稚児が出水兵児修養掟を朗読する場面 (H26.11.3、出水市麓町 出水小学校前広場)
※後日、2018年12月27日に、「1932(昭和7)年7月10日発行、出水郡教育会編『郷土読本』が、成文化した出水兵児修養掟の初見の文献であることを確認した。
※「1894年、明治27年、大川内尋常小学校編『出水郡郷土史談』。山田昌巌の記載はあるが、出水兵児修養掟の記載はない。」を挿入する。