『出水兵児修養掟』の作者についての考察 中元敏郎 2013.3.30成稿   ※2013.11.10一部修正

 (いずみ郷土研究会 第23号 郷土誌 2013.3.30投稿未編集原稿) 

『出水兵児修養掟』は、当初は山田昌巌(一五七八〜一六六八)が、一六三八年六十歳の時、島原の乱から出水衆を率いて凱陣し、「児請(ちごもうし)」の次第を定めた際の作と思っていたが、調べてみると文章は、正徳五年(一七一五)に刊行された『明君家訓(めいくんかくん)』の中の家臣の道を説く部分をほとんどそのまま引用して作られたものとわかった。しかし、今のところ誰がいつ頃何の目的で作ったものかはっきりしていない。

『明君家訓』は、江戸時代の武家家訓書で朱子学者の室鳩巣(むろきゅうそう)の著書である。本書は「仮設楠正成下諸士教二十箇条」という原題で、元禄五年(一六九二)正月十三日付の室鳩巣の自序が付されており、『楠諸士教』『楠公諸士教』などの題名で流布した。その主旨および楠(楠木)正成の名を借りたことについては、澆季の世を治めるには、上に明君が出て下を戒めねばならぬが、本朝で最も適任は楠正成であるからその名を仮設して、下々の平易な言葉で気付いたことを箇条に記した、と序文に述べている。本書はその後正徳五年(一七一五)『明君家訓』の題名で柳枝軒板が刊行され、特に享保六年(一七二一)将軍徳川吉宗の推奨もあり、爆発的に流行して、海賊版まで出ている。一方、本書は版元が諸般の事情で故意に仮託の書となるべく著者名を記さなかったようで、当初より本書は文章と説明内容の類似した『武士訓(ぶしくん)』の著者井沢蟠竜(いざわばんりょう)作と誤伝された。また徳川光圀に仮託されて『水戸家訓』として流布したり、あるいは松平定信に仮託された『白川侯家訓』、また『酒井讃岐守殿家訓』 、『細川家訓』などの本書の系譜をひく諸書が数多く出現したりするなど大きな影響を与えている。

仮託の本は現代でいえばタレント本に多い。出版社にとっては有名人の著作として出版したほうが売れるので本当の著者は表には出てこないし誰かもわからないゴーストライターである。室鳩巣が武士の忠孝節義について説いた『明君家訓』もこれと同様の仮託書、すなわち特定の人物の名を借り、当人の著作であることを装って作成された書物のようになってしまったようである。

ここで、参考までに、『出水兵児修養掟』とその出典とされる室鳩巣著の『明君家訓』、そしてそれに類似する井沢蟠竜著の『武士訓』の三つがどれだけ類似しているかを、その類似している部分を並べて比較してみることにする。

【出水兵児修養掟】

士ハ節義を嗜み申すべく候。節義の嗜みと申すものは口に偽りを言ハず身に私を構へず、心直にして作法乱れず、礼儀正しくして上に諂らハず下を侮どらず人の患難を見捨てず、己が約諾を違へず、甲斐かいしく頼母しく、苟且にも下様の賎しき物語り悪口など話の端にも出さず、譬恥を知りて首刎ねらるゝとも、己が為すまじき事をせず、死すべき場を一足も引かず、其心鐵石の如く、又温和慈愛にして、物の哀れを知り人に情あるを以て節義の嗜みと申すもの也。

【明君家訓】

節義の嗜と申は、口に偽をいはず、身に私をかまへず、心すなをにして外にかざりなく、作法不乱、礼義正しく、上に不諂、下を不慢、をのれが約諾をたがへず、人の患難を見捨ず、かひゞゝしくたのもしく、仮初にも下ざまの賤き物がたり、悪口など言葉の端にも不出、さて、恥を知て、首を刎らるとも、おのれがすまじき事はせず、死すべき場をば一足も不引、常に義理をおもんじて、其心鉄石のごとく成ものから、又温和慈愛にして、物のあはれをしり、人に情有を、節義の士とは申候。

【武士訓】

士たらんものは、節義をもつぱらたしなみ、一言一行も、武士の道にをいて、不吟味なることなきやうにと心がくべし。口にいつはりをいはず、身にわたくしをかまへず、内すなほに、外かざりなく、礼義たゞしく、作法見だれず、たつときにへつらはず、いやしきをあなどらず、富るにほこらず、まづしきを見すてず、人をそしらず、我をたてず、かげ言中謀いふべからず。

以上、三つを並べて比べてみると、『出水兵児修養掟』は改作をしてあるものの、やはりかなりの部分に直接引用がされているものと思われる。

さて、『明君家訓』の著者、室鳩巣(一六五八〜一七三四)は、江戸・谷中で生まれ、幼年より書籍に親しみ、一六七二年(寛文一二)加賀藩主前田綱紀に仕えて、その命により京都の木下順庵に就いて学んだ。八六年(貞享三)加賀(金沢市)に赴任し、廃屋を買って住居としてから、鳩巣の号を用いるようになった。この間、山崎闇斎門下の羽黒養潜と往来して学問を深めたが、朱子学者としての定見をもったのは四十歳近くになってからという。一七一一年(正徳一)同門の新井白石の推挙で幕府儒官に転じ、江戸・駿河台に住んで、白石失脚後も将軍徳川吉宗の信任を得て、二二年(享保七)侍講となり、しばしば諮問を受け、幕政にも関与した。二五年には西丸奥儒者となり、享保一九年に七十七歳で没するまで、その地位にあった。陽明学や仁斎学、徂徠学の流行時に、朱子学を墨守して普及に努めたが、晩年にはわが心をよりどころにして近世的な自我意識や、君臣、君民間の契約を論じた。著書に『赤穂義人録』『六諭衍義大意』『駿台雑話』『不亡鈔』『明君家訓』『鳩巣文集』など多数がある。  

『赤穂義人録』は薩摩藩の武士教育のテキストに使用されたが、これは、薩摩藩の郷中教育に取り込まれ、戦前まで出水も含め県下の小学校で行われていた赤穂義士伝の輪読会等の行事に繋がっていると思われる。

室鳩巣は享保七年には将軍吉宗の命により寺子屋教育のテキストとして広く流布された『六諭衍義大意』を著しているが、その原本の『六諭衍義』は清から琉球、琉球から薩摩に渡来し、薩摩藩主島津継豊から吉宗に献上されたものである。江戸で鳩巣に入門して学んだ児玉図南や愛甲季平などの薩摩藩士はいずれも帰藩の後、薩摩藩独特の教育機関である郷中教育を通して鳩巣の学問を広めたので、室鳩巣の儒学は薩摩に浸透した。そうして、安永二年(一七七五)からの藩校造士館の教育を担ったのは鳩巣学を信奉する学者に他ならなかった。幕末に出水郷に開設された郷校の教授も藩校造士館で学んだ人達だった。そのため、その人達の誰かが『明君家訓』より引用して『出水兵児修養掟』を山田昌巌に仮託して作ったと思われた。しかし、出水の郷校「揆奮館」の館長で自ら四書五経を教え多くの人材を育てた肱黒友直の子で出水町長も務めた肱黒誠吉編纂の『出水町郷土史』(昭和一八年発行)にはまだ『出水兵児修養掟』は掲載されていない。これは、『出水町郷土史』編纂の時点では、まだ『出水兵児修養掟』は郷土史として着目されていなかったものと思われる。大正四年発行の中村一正著『出水風土誌』や大正十二年出水郡役所発行の『鹿児島県出水郡誌』にも山田昌巌関係の記述はあるが『出水兵児修養掟』の記載はない。『出水兵児修養掟』の記載があるのは、昭和 三十三年出水市立図書館発行の『随筆出水郷土史』からである。

山田昌巌と室鳩巣は同時代の人ではないので人的に直接の交流はないが、山田昌巌の主君に対する忠孝節義心と、『明君家訓』で説かれる家臣の忠孝節義の精神には「忠臣の鑑」、「日本人の鑑」として讃えられ、明治以降は「大楠公(だいなんこう)」と称された楠正成の崇敬に由来するところもあり、江戸に上り三代将軍徳川家光に計三回も謁し薩摩藩家老も務めている山田昌巌と八代将軍徳川吉宗の侍講を務めている室鳩巣とに教義上では何らかの接点があるようにも思える。しかし、山田昌巌の教えを記録したとされる『家教録』等と室鳩巣の『明君家訓』が書かれた経緯等に何らかの繋がりがあるかなどいろいろ調べてみたが現時点ではそれを確認することができなかった。確認できたのは、前に述べたとおり『出水兵児修養掟』は『明君家訓』の文章を明らかに引用して作られているので、『明君家訓』の出版より後の時代の作であるということだけである。

ここで、『出水兵児修養掟』の文章ではなく観点を変えて、この『出水兵児修養掟』という掟書のタイトルそのものに着目してみた。特に、「出水兵児」と「掟」の間にあえて挿入されている「修養」という言葉については、明治時代初期にあっても、まだ一般には定着しておらず、「修業、修身、修行」という言葉しか使われていなかった。まして、掟書の題目に「修養」という言葉が加えられているものは皆無である。そして、「修養」という言葉は、明治三十年代の中頃からの流行語であり、その後一般用語として定着したものであることがわかった。著書『武士道』で有名な新渡戸稲造は、明治四十四年に『修養』という明治・大正の大ベストセラーを著している。このため『出水兵児修養掟』というタイトルはこの時期につけられたのではないかと思われる。掟書の内容としては、タイトルを『出水兵児掟』としてもかまわないのにわざわざ流行語の「修養」を挿入しているのがこの時期に『出水兵児修養掟』が作られたことを示す何よりの証拠ではないかと思う。

そこで、『出水兵児修養掟』の作者として浮かび上がってくるのは、現存するこの掟書の最も古いものをこの時期に扁額等の揮毫で書いていると思われる溝口武夫である。溝口武夫は、嘉永六年(一八五三)出水郷麓竪馬場通り郷士で戊辰の役にも出陣した溝口正八郎の長男として生まれ、郷校揆奮館で肱黒友直に師事し、文武の道を学び、教育者としては、明治十二年二十七歳の頃より出水小学校教員として指導に当たり、政治家としては、明治十四年に県会議員となる。明治二十年(三十五歳)には鹿児島高等中学造士館の舎監に就任する。明治十年頃より子弟に武道を奨励し、士気の維持振作に意を注ぎ、明治三十九年(五十四歳)武徳会出水支所の開設に当たり演武主事となる。特に弓道については指導を明治四十二年(五十七歳)から県下全般に行っており、昭和五年(七十八歳)には大日本武徳会より弓道範士の称号を授けられている。薩摩藩最後の弓術師範東郷重持から継承した薩摩日置流「薩摩日置流腰矢指矢」も後世に伝承した。昭和九年(八十二歳)は出水武徳殿の設立に大いに奔走尽力し、明年湊川神社で行われた大楠公六百年記念祭奉納演武への出場を志願した。溝口武夫は、昭和十年(一九三五)八十三歳で没したが、弟子は彼から「薩摩日置流腰矢指矢」を継承している。弟子の弓道範士伊藤信夫が代表者として昭和十二年に発行している『溝口武夫先生伝記』によると、大正八年(六十七歳)に県立出水中学校が設立されると、同校全徒に示現流の剣法を授け兼ねて弓道の指導に当たるとあり、大正十二年(七十一歳)出水高等女学校学友会の弓道教授を嘱託され、昭和三年(七十六歳)には出水中学校弓道教授を嘱託されている。また、出水中学校の依嘱より揮毫して学校に掲げてある文が『出水兵兒修養掟』であり、出水中学校創立十周年記念に際して、出水兵児の士風についての談話を寄せている。この揮毫は文献で確認される最も古い『出水兵兒修養掟』であると思うが、現在の県立出水高等学校(元の旧制県立出水中学校 )に引き継がれて保存されているのであればいろいろ判明することもあると思うので、ぜひとも拝見してみたいものである。県立出水高等学校に現存しているか問い合わせをしているが現時点では回答がないのでわからない。わかればまた後日当会誌上ででもお知らせしたいと思う。溝口武夫は、私立山北学館の設立、県立出水中学校の設立や出水中学校創立十周年記念館「揆奮館」建設に尽力した。

「揆奮館」は、溝口武夫が最初に学んだ郷校の名称であるが、ここで文武両道に精励し、弓術・剣術・槍術・居合術・柔術を学び出水兵兒士風の組織的訓練を受けている。また「揆奮館」は、山田昌巌が出水兵兒士風を作興するために出水麓に創設した学舎の名称でもあった。

溝口武夫は衰退した出水兵兒士風の復興に努め、県立出水中学校開校後は中学生のために示現流の指導を通じて出水兵兒魂の鼓吹と維持に努力したが、県立出水中学校の生徒は山田昌巌に仮託された『出水兵児修養掟』を暗唱できるほど憶えさせられたそうであるから、当初この掟を世に広く知らしめたのは県立出水中学校の卒業生であろうかと思われる。

溝口武夫は大正六年(六十五歳)の山田昌巌翁二百五十年祭の挙行に際し特に尽力しており、祭典の総指揮者の総大将役を務めている。この時に明治維新後なくなっていた行事で、山田昌巌が創始したという「児請」の再現の写真が今も残っている。これが平成十二年から行われている出水麓まつり(山田昌巌祭)の中で再現されている「児請」と同じ式次第であったとすると、写真は執稚児が『出水兵児修養掟』か『昌巌翁賛歌』を朗読している場面と思われるが、古文書の絵図には『出水兵児修養掟』を朗読する場面は特に描かれていないので、これは昔は無かった場面であり、二百五十年祭の時に式次第に付け加えられた場面ではと思われる。『昌巌翁賛歌』はこの行事のために黒江隆三が祝歌として作っており、『出水兵児修養掟』も山田昌巌の教えを基にして作られたとされているところから、この行事の時かそれより前に、出水兵児の士風を創始した山田昌巌に特に思い入れのある溝口武夫が、山田昌巌に仮託して作ったものである可能性が非常に高いと思う。

この写真で朗読されている巻物を見れば誰が何を書いたとかが判明すると思うが今も現存しているだろうか。また当時の関係者が生存しておられれば証言等も得られると思うが九十六年も前の事なのでまず無理であろう。

『出水兵児修養掟』の記載がある出水の郷土誌『出水の歴史と物語』では、熊本細川藩の学者井沢蟠竜の著作の『明君家訓』や『武士訓』を江戸時代後期に改作したものと記され、 『明君家訓』の著者を誤って記されているのであるが、これは、教育者であり武道家でもあった溝口武夫としてはしごく当然に、当時、新渡戸稲造のベストセラー『修養』等の修養書とともに、『明君家訓』を井沢蟠竜の著作として誤って掲載している当時の武士道教訓集のベストセラー『武士道叢書』も読んでいたことが推測されるので、溝口武夫も『明君家訓』を井沢蟠竜著であると思いこみ、『出水兵児修養掟』はそれを改作したことを編者に伝えたからではないかと思う。『明君家訓』は古文書でも井沢蟠竜の著作と受け取られるものもあるので、これはいたしかたのないことであろう。

これらのことから、『出水兵児修養掟』は溝口武夫が山田昌巌翁二百五十年祭の挙行に際し、山田昌巌に仮託して『明君家訓』を引用し『修養』という当時の流行語もタイトルにつけて作成したものであることが十分推測されるのである。

世の中が、維新を経て忠君愛国が教育の指針であった明治時代に日本が日清・日露戦争に勝利して、大正に入り第一次世界大戦に参戦した後の頃のことである。しかし、その真偽は故人である溝口武夫に聞いて確認することが不可能であるので、故人の日記等の証拠書類でも出てこない限り、今はあくまで推論の域は出ないといったところである。

さて、今年は、NHKテレビの大河ドラマ『八重の桜』の放送で会津武士道が注目を集めている。そして、会津武士道の『掟』というと会津藩の『什(じゅう)の誓い』別名『什の掟』が世間には理屈を越えて「人として守らなければならないもの」があることを教え、特に『ならぬことはならぬものです。』の言葉が有名であるが、『什の掟』は藩校に上がる前の会津藩士子弟の躾として朗誦を定められていた。会津藩と薩摩藩はなにかと関係が深いのであるが、武士道を学び精神を鍛えるという目的が、薩摩藩の郷中教育とよく似ており、『出水兵児修養掟』の朗誦等は同じ『掟』の類(たぐい)なのでもしかしたらこれを真似たのかもしれない。

『出水兵児修養掟』の原典の『明君家訓』が数多くの書に引用されているのは、それだけ内容が多くの人に支持されたということであり、溝口武夫もそれを十分認めて引用し、『出水兵児修養掟』を作ったのではなかろうかと思う。

主君である島津の殿様と強い主従関係があった山田昌巌の行った出水兵児の健児団教育と、室鳩巣の『明君家訓』の意図する士道教育、そして溝口武夫が『出水兵児修養掟』で意図する訓育は、それぞれの時代背景が異なり同じものではなく、直接的には今の時代にはそぐわないものもあるが、内容は人それぞれの捉え方次第で現代においても十分通用する生きた訓えなので、『出水兵児修養掟』は作成までの経過はともかく今も素晴らしい教訓であることは間違いないと思う。

参考資料として写真を四点添付する。溝口武夫は歌人で達筆の書家でもあったが、写真@は、『溝口武夫先生伝記』に掲載されているもので一部誤記もあるが本人七十九歳の時の揮毫で弓道範士になった後の『出水兵児修養掟』の扁額である。名前の下に「書」と書いてあるので、文章自体は自作ではなく他人の作であることを示していると思う。写真Aは、出水市の一般公開武家屋敷税所邸に掲示してある『出水兵児修養掟』の扁額で一般公開武家屋敷竹添邸に掲示してあるものと同じもので複写印刷したものと思われるが、「翁」と「復字」が書いてあるので溝口武夫七十七歳の書のものを書家の誰かが模写したものと思われる。写真Bは税所邸に掲示してある大正六年(一九一七)の山田昌巌翁二百五十年祭の挙行の時のおそらく執稚児が『出水兵児修養掟』を朗読している場面と思われる。写真Cは、溝口武夫の弟子の伊藤信夫(一八九○〜一九八一)が昭和四十一年(一九六六)に弓道範士になったとき記念に揮毫した扁額であるが、『出水兵児修養掟』の一部を省略しており、『出水兵児掟畧』というタイトルも「修養」を省略していて、掟書をさらに改作した例である。記念にこのような扁額を揮毫したのは溝上武夫師範に倣ったのだろうか。

さて、総括すると結局、残念ながら現時点で考察できる資料ではいずれも推論の域を出ないのであるが、『出水兵児修養掟』が、江戸時代後期の作ではなく明治時代後期以降の作であることと、出典の『明君家訓』が井沢蟠竜著ではなく室鳩巣著であることは間違いないと思うのでこれは明記したい。

今後、もっと古い『出水兵児修養掟』の扁額やそれに関する記録書・写真等の資料が発見されればさらに詳しくはっきりとしたことがわかると思うが、個人的にはもっと研究を進めたいので、これからその発見が行われることを期待してやまないところである。

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【参考文献等】

『国史大辞典』(昭和六十年・吉川弘文館)、『近世以降武家家訓の研究』(昭和五十年近藤斉著・風間書房)、『武家家訓・遺書訓修成』(平成十四年小澤富夫著・ぺりかん社)、『武士道家訓集』(明治三十九年博文館発行)、『武士道叢書・上巻』(明治三十八年博文館発行)、『日本大百科全書(ニッポニカ)』小学館、『出水町郷土史』(昭和十八年発行)、『出水風土誌』(大正四年発行)、『鹿児島県出水郡誌』(大正十二年発行) 、『出水の歴史と物語』(昭和四十二年発行)、『出水郷土誌』(平成十六年発行)、『出水文化』創刊号(昭和四十一年発行)掲載『「出水兵児修養掟」について』、『山田昌巌翁(三百年祭記念)(昭和四十二年発行)、『山田昌巌翁伝と児請』(平成十三年発行)、『出水麓のつわぶきのあしあと』(平成十七年発行)、『藩校教育の前提、薩摩藩の場合』(沖田行司昭和五十四年成稿論文)、『野田村地方誌資料』(昭和三十一年吉冨直衛著)、『中村三近子の『切磋藁』について』(和田充弘)、『近代日本における「修養」概念の成立』(王成)、『溝口武夫先生伝記』(昭和十二年発行)、『武士道と修養』(新渡戸稲造著・実業之日本社)、『修養』(新渡戸稲造著・たちばな出版)、『古書で読む明君家訓』(阿田俊彦・南方新社)、『出水の生活と伝承』(昭和六十二年発行)、『出水の石碑・石造物』(平成十三年発行)、『武士道その名誉の掟』(笠谷和比古著・教育出版)、『武士道の思想』(笠谷和比古著・NHK人間講座)、『島津斉彬言行録』(岩波書店)、『島津義弘の軍功記(昭和五十六年発行)、『戦国武将島津義弘』(平成十八年姶良町歴史民俗資料館編集発行)、郷中教育の研究(松本彦三郎著)、『駿台雑話』(室鳩巣著・岩波書店)、『広益俗説弁』(井沢蟠竜著・平凡社)、『広益俗説弁続編』(井沢蟠竜著・平凡社)、『薩南健児社研究・附会津白虎隊研究』(大正十五年日本青少年団研究会編・日本魂社発行)、『倭文麻環(出水児請(写))青史社』(白尾国柱著)、『兒請絵巻』(昭和五十九年発行・出水市教育委員会)、『かごしまの弓道』(平成元年鹿児島県弓道連盟発行)、『かごしまの弓道・続一』(平成十一年鹿児島県弓道連盟発行)、『会津武士道』(中村彰彦著)、『会津武士道「ならぬことはならぬ」の教え』(星亮一著)、『さつま人国誌』(桐野作人著)、『関ヶ原島津退き口』(桐野作人著)、『ョ山陽』(昭和五十四年安藤英男著)、『藩校・私塾の思想と教育』(平成二十三年沖田行司著)、『朱子学派教育論の歴史的展開』(角田多加雄著)

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