出水兵児修養掟(いずみへこしゅうようおきて)

 出水兵児修養掟は,江戸時代後期に,その頃の青少年をたくましく育てるために作られたといわれています。 ⇒山田昌巌と出水兵児修養掟(江戸時代後期ではなく、大正の初期に成文化されたとする説)

 内容は,武士の心構えを表したものですが,今の世の中でも人としての生きる心構えの教えとしての傑作といわれ,多くの人に親しまれています。 

[原文]

 いずみ  へ こ  しゅうようおきて

出水兵児修養掟

 し    せつぎ     たしな              そうろう

士ハ節義を嗜み申すべく候。

       たしな                          いつわ                    わたくし  かま           こころすなお

節義の嗜みと申すものは口に偽りを言ハず身に私を構へず,心直にし

  さほう                           かみ   へつ        しも   あな             かんなん  

て作法乱れず,礼儀正しくして上に諂らハず下を侮どらず人の患難を

         おの    やくだく   たが         か  い          たのも       かりそめ      しもざま

見捨てず,己が約諾を違へず,甲斐かいしく頼母しく,苟且にも下様の

いや                           はし             たとえはじ           くびは

賎しき物語り悪口など話の端にも出さず,譬恥を知りて首刎ねらるゝと

  おのれ      な                                   ひとあし             そのこころてつせき

も,己が為すまじき事をせず,死すべき場を一足も引かず,其心鐵石の

ごと        おんわ  じ あい              あわ              なさけ         もつ         たしな

如く,又温和慈愛にして,物の哀れを知り人に情あるを以て節義の嗜み

            なり

と申すもの也。  

 

[口語訳]

 人は正しいことをしないといけない。

 正しいこととは,うそを言わないこと,自分よがりの考えを持たないこと,素直で礼儀正しく,目上の人にぺこぺこしたり目下の人を馬鹿にしたりしないこと,困っている人は助け,約束は必ず守り,何事にも 一生懸命やること,人を困らせるような話や悪口などを言ってはいけないし,自分が悪ければ首がはねられるようなことがあっても弁解したりおそれたりしてはいけない,そのような強い心を持つことと,小さなことでこせこせしない広い心で,相手の心の痛みが わかるやさしい心を持っているのが,立派な人と言えるのです。

 

[解説] 

 教育は百年の計といわれますが,学校教育が制度としてなかったころ,薩摩藩では子弟たちを郷中教育(ごじゅうきょういく)で心身を鍛えていました。

 鹿児島県出水市でも,郷土の先輩たちの手により独特の学風や士風が醸成され,伝統として受け継がれ,県下に名だたる出水兵児(いずみへこ)≠スちを育んできたようです。

 薩摩の代々の藩主たちは「薩摩を守るのは城でなく人である」と考え,国防の重点を士民の訓育においてきました。

 このことが江戸時代の末期から明治維新の大業を推進する最大の原動力となり,天下がせん望する幾多の人材を鹿児島から輩出したことにつながっていったといわれています。

 ところで,出水兵児の「兵児(へこ)」とは青少年のことで,数え年6〜7歳から14歳の8月までを「兵児山」と呼び,それから20歳の8月までを「兵児ニ才(へこにせ)」,30歳までを「中老」と,三つに区分していました。

 兵児教育の重点は「兵児山」と「兵児ニ才」におかれたことはもちろんです。

 郷中教育はグループ別に,また,青少年別に行われましたが,その運営は年長者がそれぞれの組を率いて,その土地の風土や伝統に適した厳しいスパルタ教育を行っていたようです。

 教育の中味は,ずいぶん厳しい「しつけ教育」でしたが,厳しいなかにも特に幼少者に対しては慈愛をもってあたったようです。また,年中行事の活動のなかには,慰安の含みもあったようです。

 教育の方法は,各郷中で独特のものが工夫され,会員相互がなんでも心から話しあえる会でしたが,反面,各自が日常守るべき規約を定めて,違反した人は,お互いに反省し,討論のすえ処罰するという厳しいものでした。

 このグループを「咄(はなし)相中」,規約を「二才咄格式定目」と呼び,この規約にしたがって山登りや水練,剣術などの訓練に励み,酒色や怠慢をいさめ,武勇や信義を尊ぶ気風を養成していったようです。

 また,この規約のほかに各郷中には,青少年の生活規範ともなる「掟(じょう)」をつくって座右の銘とし,朝夕,朗読させて実践させました。

 出水は肥後と国を接する薩摩の表玄関にあたり,国境の守りとして古来から,最も尚武の地でした。その出水で三百年以上も昔,名地頭とうたわれた山田昌巖は,厳しい訓練によって出水兵児の士風を確立したといわれています。

 その後,強いものとして天下に知れ渡った出水兵児ですが,その「精神」は代々子孫に伝えられ,今日なお,その余香を残しています。

 出水の郷中教育の掟が出水兵児修養掟であり,他の郷中のそれと比較して優れているといわれた点は,武勇のほかに「ものの哀れ」を求めたことであり,二才たちがこれを実践したことだといわれています。

 時代は変りましたが,この掟の「士」を「人」に置き換えてみると現在でもなお,生き生きとした私たちの処世の道を示してくれるようです。

 

            ※山田昌巌           ※兒請(ちごもうし)

※※1629年第三代出水地頭として赴任してきた山田昌巌は文武両道にすぐれた名地頭で,勤倹尚武の徳をすすめ,多くの民に慕われ,出水兵児の育成,産業開発など出水の治政に意を注ぎ,勇敢で徳を備えた出水兵児士風のもととなりました。

「稚児請(兒請)」は山田昌巌が島原の乱から凱旋したときに創始したといわれています。主君に対する忠誠を養い,併せて心身の鍛錬をめざす,出水兵児独特の行事です。

※小・中学生向け「出水兵児修養の掟(いずみへこしゅうようのおきて)」解説⇒「出水の歴史と物語」出水市教育委員会・出水市教頭会、昭和62年3月発行、P.7〜P.8より抜粋

山田昌巌と出水兵児修養掟       ⇒『出水兵児修養掟』の作者についての考察(江戸時代後期ではなく、大正の初期に成文化されたとする説)